蘭亭序は、詩文としても書としても傑出しているとされ、古来多くの書家の手本となって来た。現在でも、書家を称する以上は必ずマスターすべき高くそびえる金字塔となっている。

にもかかわらず、その文言に確定していない部分があるという。すなわち、文中の半ほどにある文言が、「怏然(おうぜん)自足」なのか「快然(かいぜん)自足」なのかどちらが正しいかはっきりしないというのである。しかも意味は全く正反対。怏然(おうぜん)なら楽しめない、不満に思う意であるし、快然(かいぜん)ならば、楽しい、心地よいの意である。

古典中の古典、しかも意味は全く正反対、なのに定見がないなんて。そんなばかな。

そこで、出典をあたってみた。以下の通りである。

虞世南臨本(八柱第一本)怏然
褚遂良臨本(八柱第二本)快然(注)
馮承素模本(八柱第三本)怏然
欧陽詢拓本(定武本)怏然
開皇本拓本不明
頴上本不明
柳公権拓本快然

(出典)八柱本は、石川九楊編 書の宇宙6を、その他はネットを参照した。論文ではないのでご寛恕を。不明の意味は、まだ原典に当たれていないことを意味する。
(注)怏然のようにも見えるが、旁の第一画は打ち込んだ分厚い始筆と考えるのが妥当か。

 確かに、バラバラである。でもどうも、大勢は「怏然(おうぜん)」のようである。
因みに、新釈漢文大系には、「「怏然」は「快然」の誤り」とあるそうである。

 そんな馬鹿な。そんなにあっさり決つけられるものなのか。
すでに原本は散逸してしまっているが、原本に書かれた文字はひとつであり、両論併記は成り立たないはずである。
 でもどうして未だに定まっていないのだろう。正解があれば是非教えていただきたい。

次回は、私なりに納得できた中国の学者の見解を記してみたい。

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